「仏像ー一木にこめられた祈り」
[仏像] 現在国立博物館で行なわれている「仏像」展,私も10月末に見に行った。実は前後券を買ったので,もう1回見に行くつもりだ。公式サイトはここにあるが,実は途中で仏像の入れ替えがあるのだ。前半に展示されるのが,京都の宝菩提院願徳寺にある「菩薩半跏像」,後半があの門外不出の向源寺の「十一面観音菩薩立像」である。
しかし,こんな展覧会が行なわれるとは,てっきり,みうらじゅんの入れ知恵かと思ったが,そうではなかったらしい。みうらじゅん曰く,「一木は動きが少ないので最初はどうかと思った」とのこと。でも,結局,いとうせいこう・みうらじゅんのイベントあったみたいだけど。
一木の仏像が作られた時代は主に,奈良後期から平安期のようで,特に十一面観音がよく作られている。一木は体の動きが制限されるので,その中で趣向をこらそうとするとちょうどいいのかも。そんな中,菩薩半跏像は「本当にこれは一木?」と思われるような重厚感と華麗さを持っていた。いい仏像というのは必ずそうなのだけど,観る角度や光の加減やこちらの精神状態によって表情が本当に変わる。この仏像は,本当にずっと観ていても全く飽きがこない。写真を勝手に載せるのはバチが当たりそうなので,ここのリンクから写真を見てみて下さい。ここにある写真も,実物と感じが違う。不思議だ。
後半は円空・木喰の世界。円空仏は知っていたが,木喰は実はよく知らなかった。江戸時代に一木の仏像を彫りまくった僧として並べられることが多いようだが,全く作風は違う。円空は……こちらのイマジネーションというか「仏を見ようとする心」が求められるような気がする。美術品としての仏を持つことが出来ない人達のための仏というせいもあるだろう。いい加減な感じに見えるんだけど,そこにあるのは明らかに単なる木の像ではなく,「仏」である。この間NHKのドキュメンタリー番組で「現代の仏師が厳島神社に奉納する大仏を作るまで」というのを放送していたので観たのだけど,その方が「見る人が仏を見ることが出来るかが一番重要である」と仰っていたのを思い出した。木喰は明るい作風なのだけど,その明るさは,仏にすがらざるをえない人達の存在をなぜか感じさせた。仏だけでも笑顔を。
これだけ仏を見ると,仏像の観方も結構分かってくるものだ。もう一度見に行った時は,どんな風に見えるだろうか。





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