30 posts categorized "書籍・雑誌"

2008.02.12

真剣裁判官しゃべり場か?

 時々は本の感想も書いておく。この本は本屋でたまたま見付けた本。判決場面での裁判官様の発言を集めた,ある意味画期的な本である。裁判官は自分たちで決めた判決だけ言い渡せばそれで仕事としてはいいはずであるが,つい個人的に言いたいことが出てしまったり,判決を下すにあたっての自分たちの気持ちを吐露してしまったり,社会に対する疑問や憤懣を表現してみたりと,いろんなことをしているものである。単なる発言集めだけでなく,その当の裁判官に後でその時の心情を聞いてみたりと,裁判官の事情にも迫っているのも面白い。
 
 恐ろしいことに,裁判員制度も来年には開始予定である。最近の裁判を巡る世間の騒ぎをみていると,裁判員制度に対する理解どころか,法的考え方についての理解も進んでいないのではと暗澹たる気分になってくる。裁判の傍聴をしたことがある人ってどれだけいるのだろうか? 現実の裁判がどのようなものだと知っている人がどれだけいるのだろうか? 運良く,と言っていいのか分からないが,私自身は無縁で来てしまった。どうしたものかと思いつつもどうにもならないのだろう。
 
 

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2007.04.06

左巻健男「水はなんにも知らないよ」

[][][] 私は疑似科学の本を読むのが割と好きだ。滅多に買わないけど(笑)本屋で立ち読みするとなんだかすっきりするのだ。本書は「水は答えを知っている」や「マイナスイオン」や「ナントカ還元水」(この本が書かれた時点ではその発言はなかったけど)などの水を巡るアヤシイ商売とそれに伴っている疑似科学の問題点を指摘した上で,「なぜこのような商売がはびこるのか?」「現在の水道の問題」「人間にとっての”水”はどのような性質を持つのか」を解説した本である。

 
 なぜ疑似科学にひとは心惹かれるのか?
 第1の理由は,「自分の直観にしっくりくる」からであると思われる。相対性理論を否定する疑似科学の理論は数多あるらしいが,否定する最大の理由は「そんなことはありえそうにない」とか「そんなの理解できないから」らしい。
 ちゃんとした科学を理解するのは実は結構難しい。心理学で有名な思考の問題に「ホース問題」がある。床にホースをグルグルッと渦巻き状に巻いた状態で置き,ホースの片方を蛇口につないでみる。蛇口をひねった時,ホースの出口から水はどのような方向に飛びだすのか? という問題だ。答えは,「まっすぐ出る」だ。渦巻きに沿ったように水は流れない。しかし,間違える人は大人でも多い。私達は科学理論にあってないかもしれない「直感的な理論」を持っている(素朴理論という)。疑似科学は素朴理論に沿っているので,理解しやすく,「こっちの方が正しい」と思い込む人も出てくるだろう。
 そして,疑似科学にひっかかりそうな人って,意外と「科学的」にものを考えたい人だったりするんじゃないだろうか? 例えば,「水に”ありがとう”と言うと美しい結晶ができる」なんて,「科学なんてよくわかんね」な人の方がひっかかりにくそうだ。変に「実証データ」を重視する人の方が信じそうな感じがする。実際に物理学会で発表されたわけだし。
 
 
 本書のテーマの「水」だが,疑似科学だけでなく「健康意識」にも関係している。他の国のことはよく知らないが,日本人って健康ヲタクが多いような気がする。マッサージ屋はやたらとあるし,健康番組や健康雑誌は絶対になくならない。水道水に対する漠然とした不安があるために水ビジネスがなくならないのではというのが左巻氏の推論だ。確かに最近でも西原理恵子が「大阪の水はまずいから飲むな」とテレビで発言して問題になった。実は大阪の水はもうまずくない。かなり高度な浄水設備を作ったおかげで,もはやミネラルウォーターと区別がつかないくらいの水が供給されている(あ,でも古い建物だと,送水管のせいで水がまずくなるけど)。しかし,「大阪の水がまずい」と思い込んでいるのは,多分西原理恵子だけではない。最後に「水道水を美味しく飲むコツ」や「ミネラルウォーターの落とし穴」といった親切な解説もあるのでそちらを参照されたい。日本の水道は,結構安全なのだ。

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2007.03.19

反★進化論講座 ー空飛ぶスパゲッティ・モンスターの福音書ー

[][][]Th_lastsupper 多分,このブログを読んでいる主な生物はヒトだと思う。多分ネコやイヌやサルではない。また,ヒトの中でもおそらく日本人が大半であろうと思われる。では,私達人間は地球上においていつどこで発生したのか。科学教育を受けた大体の日本人なら,進化論についてなんとなくは知っているし,少なくとも「宇宙人が人間を作った」というような言説を信じている人はそうたくさんはいないだろう(だからといって,日本人が他の国の人間よりも,科学的な考え方をしているというわけではないだろう。納豆を買いにスーパーに走る人があれだけいるのだから)。
 しかし,実はアメリカではインテリジェント・デザイン(ID)論を進化論とともに学校で教えろという主張が無視できないくらい大きくなっているのだそうだ。ID論については今回初めて知ったが,「何らかの知的存在が生物をデザインしたのだ」という主張である。これってキリスト教と何が違うのか? と思われるかもしれないが,ID論ではその存在が神とも何とも断言していない。彼らの主張では,進化論も単なる仮説であり,その点ではID論となんら変わらないのだとしている。確かに進化論は,科学の必須条件である「再現可能性」やら「実証性」やらがあまりない,ように見える。というか,例えば「サルがヒトに進化するのを誰がみたんか?」とか「ここにいるサルをヒトにしてみろ」とか言われても,無理である。それならID論だって科学的仮説と言えるんじゃないか。ジョージ・ブッシュ大統領だって賛成しちゃったらしいぞ。
 ここで立ち上がったのが,我らがスパモン教の預言者ボビー・ヘンダーソンだ。そうだ,進化論だけでは確かに問題があるぞ! でも学校でID論を教えるのであれば,「flying spaghtti monster(以後スパモンとする)が世界を作った」というスパモン仮説も同様に取り上げてもらいたいという手紙をカンザス州の教育委員会に出した。当然無視されたが,ウェブ上では大反響を呼んだ。なんと,あの進化論の大御所・リチャード・ドーキンス博士もスパモンに賛同したらしいのだ。
 スパモン教の教えは単純である。この世の中はスパモンが作った。だから,DNAはパスタに形状が似ているのだ。
 地球の重力もスパモンが支配している。私も含め私の実家の連中はみな背が高いが,きっと北関東の農家ではスパモンの力が弱かったのだろう。何しろコメ農家なのでパスタとは相性が悪い。
 天国にはビール火山とストリッパー工場がある。私は女だからストリッパーは別に嬉しくないが。天国に行くと,みんな海賊の正装をしている。そう,現在の人間の祖先は海賊なのだ。だから海賊とヒトは似ているのだ。しかし,恐ろしい事に現在では,地球の温度は海賊の数と負の相関関係にある。戦争で死んだ人の数もおそらくそうではないか。海賊を増やす事が地球の安定につながる。
 スパモン教の教義でいちばん大事なのは,あらゆるドグマの拒絶だ。スパモンは本当は存在しないかもしれない。でも,そういう証拠があればそれは仕方ないのだ。
 ちなみに,この本を私が知ったきっかけは,ネットで知りあった方が「面白い」と言っていたからだ。よく考えてみれば,インターネットはボウル一杯のパスタに似ていないか。スパモンによる運命的導きを感じさせられる。
 この宗教には30日間のお試し期間がある。これを読んだあなたにもヌードルの祝福がありますように。ラーメン。

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2007.03.13

ある種の誉め殺し

[] 職場に本当に本を読まない人がいます。職場柄,専門以外の本を全く読まないという人はかなり珍しいのですが,彼は本当にそういう人で,周りが村上春樹だの司馬遼太郎だのの話を始めると,「なにそれ?」という顔になります。別に本を読む人が読まない人間よりも偉いとも思わないのであまり気にしてないのですが,毎回のように「なんでみんなそんなに本読んでるんですか?」と質問される方がうざいです。なんで毎回そんな質問するんですか? 「俺の気分考えて会話しろ」ってことなんだろうけど。すまないね,でも,そうすると話すこと極端に少なくなるんだよ。
 
 でも,そんな彼もいろんな事情があって本を読まざるを得ない状況になったんだそうです。で,「読書に目覚めた」らしく,こないだこんなこと言われました。

「オレ,こないだ,リリー・フランキーの『東京タワー』読んだんですよ。生まれて初めて本読んで感動して泣きましたね。コバヤシさんは今まで本読んで泣いたことありますか?」
 
 最後の「今まで本読んで泣いたことありますか?」という発言の問題についてはここでは置いておきます。ある意味最も問題のある発言だけど。オレとお前はそんなに親しいのか? なんでお前ごときに「今まで本読んで泣いたことがあるかどうか」というかなり恥ずかしいことを話さねばならんのだ。でも,親しい人間にも絶対こんな質問しないよな。あ,現に親しくなくって今後も親しくなりたくもないからこんな発言したのかも。この発言は無邪気を装っているが,いろんな意味で悪意があるから。この発言の問題性を指摘した途端に私が悪者になるわけだし。ああ,オレ嫌われてるのね。
 そんなことより,今まであまり本を読まなかった人間が生まれて初めて(一応成人)感動した本が「東京タワー」であるということ。
 
 
 私,「東京タワー」は文庫になったら買おうと思ってたんですよ。どうせそのうちなるだろうから。
 
 
 某「面接の達人」書いてる作家(なのか?)のwebページを前に見たことがあって,「読者の感想」がいろいろ書いてあるんですが,そこに「今まで殆ど本を読まなかった私が,先生の本を月に10冊以上読破しています!!」って書いてあったのを思い出しました。この感想読んだ人がどう思うかというと,多分「そんなに先生の本は素晴らしいのか」ということではないでしょうね。誰も言わないけどさ。いや,「東京タワー」は文庫になったら多分買うと思うけども。多分ね。

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2007.03.04

BigTomorrow的価値観は廃れているのか

[][][][] 最近,ふとしたきっかけで,「BigTomorrow」という雑誌の存在を思いだした。「ビッグになりたい」という往年の吉田栄作的暑苦しさを前面に出しながらも,なぜか四畳半的貧乏臭さがぬぐえなかったあの「BigTomorrow」。昔は結構新聞広告や車内広告を出していたが,最近見なくなった。必ず隣には姉妹紙の「SAY」という女性版「BigTomorrow」の広告があった。「SAY」は女性誌であるせいか「ビッグになりたい」というより「なんとか幸せになりたい」感が強く,貧乏臭さ3割増。。こちらの広告も全く見ない。出版元は,「でる単」もなぜか出している青春出版社だったはずだ。故ナンシー関が「岸谷五朗と中嶋朋子って感じ」と例えていたあの2つの雑誌は今どうしているだろう?
 
 
 さっそく調べてみたら,「BigTomorrow」はまだ健在のようだ。こちらに公式ページがあるが,4月号の特集は,「人づき合いは他人の逆を行けばうまくいく!」だそうだ。笑。落合信彦,田原総一朗,猪瀬直樹,井筒和幸,森永卓郎……とある意味ソウソウたるメンツが連載している。明らかに一時代ずれている。
 しかしながら,姉妹紙の「SAY」は2007年4月号で休刊になるそうである。その休刊前最後の4月号の特集は,「幸せを手にするタフな生き方」ってことで,叶姉妹,中谷彰宏,ユンソナ,名越康文らが何か言ってるらしい。「女の「困った」をたちまち解決 おしえて!弁護士先生」というコーナーがあるらしいのだが,今月のお題は「別れた彼氏が貸したお金を返してくれません」。まあ,相変わらずの「SAY」っぷりである。「別に大した幸せを望んでるわけじゃないけどどうしようもなく幸薄い女」感が漂う。そうか,休刊なのか。
 
 「BigTomorrow」指数が高い雑誌といえば,「COSMOPOLITAN JAPAN」がある。こちらも相当な野心家ではあるが,マンション買えるくらいの小金はもっていそうである。でも,マンション1つじゃワタシイヤなの!! という女性が読んでいそうな雑誌。こちらも調べてみたら,とっくに休刊になっていた。道理で最近みないと思った。
 
 
 つまり,「ビッグになりたい」系雑誌はどうやら最近廃れつつあるようなのだ。特に女性の方は。「ヒルズ族」ってのも憧れの存在じゃなくなった現在,「ビッグになりたい」という目標が持ちにくくなったのではないだろうか? 大体「ビッグになる」ってどういう状態を言うのだろう。そして,大体ビッグになる人はそんな雑誌なんか読まなそうだよな。
 その代わりに台頭しているのが,「NIKITA」「LEON」に代表される「具体的目標系カタログ雑誌」の一群である。これらもある意味野心的なんだけど,モテの方がビッグよりも目標が分かりやすいしお手軽だ。あと,女性だったらコスメ雑誌が凄い。文章見る限り,もはやコスメが哲学だもの。単に「パソコン雑誌」のようなハウツーが受けてるんだと思うんだけどね。
 更に「anan」「FRaU」といった「おんなみつを系」雑誌は全く廃れる事はない。特に「FRaU」はリニューアルされて,こんなサイトまで作っちゃってる。「女は自由。」だってさ。「ワタシがワタシで素晴らしい」ってことだよな。相変わらずしゃらくさい。
 女性誌といえば,斎藤薫の文章がいつも気になる。必ずイラッと来るんだけどつい読んじゃう。あの人は何者なのか。コスメみつをなのか? いや,本当に知らないので。

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2007.01.31

ーな人は新解さんに気をつけろ

[] 紙の辞書が売れなくなりつつあるこの世の中で独自路線を突き進む新明解国語辞典だが,この辞書の特徴の1つは「とにかく言葉を使う時の感情を重視すること」である。今回は「生意気」という言葉を取り上げるが,この解説が素晴らしい。まず第3版。

1.それほどでもないのに,一人前の口をきく(ようにふるまう)様子。また,その言葉。「ー言うな」
2.分別くさいことを言ったりして,とにかくしゃくにさわる様子。

 1の「それほどでもないのに」というのもいいが,2の「とにかくしゃくにさわる」というのが素晴らしい。「しゃくにさわる」という,こちらの心の問題に踏み込んだ解説である。確かにこちらの「しゃくにさわらない」場合は,生意気ではない。例えば,サザエさんのタラちゃんも結構分別くさいことはいうが,あまりしゃくにはさわらないので生意気とは言われない。

 しかし,第5版になると,もっとパワーアップしている(第6版も同じ)。

1.それだけの存在でも無いのに,一人前の言動をして偉ぶること。
2.ちょっとした知識をひけらかしたりまわりが黙っているのをいい事にして勝手な事を言ったりするので,機会があれば懲らしめてやりたい感じだ。

 1の方は割と(新解さんにしては)普通だが(でも,「それだけの存在でも無いのに」というのが痛烈),問題は2だ。機会があれば懲らしめてやりたい。何故だか知らないが新解さんは完全に生意気な人間に対して怒っている。「機会があれば」というのが実に恐ろしいではないか。「いつか」とか「そのうちに」とかじゃなく,「機会があれば」。新解さんの本気を感じるではないか。生意気な人が金欠で夕食代に困っている横で,「今日はアクアパッツァで食事するんだ,じゃあね」とか言い残して去っていったり,生意気な人が髪形を変えたのを見て口の端だけで笑ったり,mixiに入ってない生意気な人の横でみんなでmixiの話で盛り上がったりする新解さんの姿が思い浮かぶ。恐ろしや。
 第3版と第5版との間で一体何があったのか。生意気な人間のせいでひどい目に遭ったのか。私も割と生意気な方なのでとりあえず気をつけようと思った。

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2006.08.07

新解さんは本当は常識を疑っている

[][] 玄倉川さんのブログで「一般常識診断」が取り上げられていたので早速やってみた。

あなたの一般常識の総合正解率は82.0%です
政治 90%
経済 70%
法律 80%
歴史 90%
国語 80%

 問題の表現が変だと思ったところもあるが、まあまあの出来ですかね。本人的には国語はもっと出来るはずで経済はもっと出来ないはずだと思った(学校の成績がそうだったので(が、意外なものである。ちなみに、一応キジョ(既婚女子)です。どうでもいいけど。


 そもそも、常識とは何だろう? 明鏡国語辞典には、

一般の社会人として、だれもが共通してもっている知識や分別。「―人」

と当たり前のことしか書いていなくてつまらない。こういう時は新解さんの出番だ。新解さんなら、私達の目が覚めるような答えが書いてあるはずだ。どれどれ。第3版からずっと、新解さんに載っている「常識」の意味は次のとおりである。

[common senseの訳語]健全な社会人なら持っているはずの(ことが要求される)、ごく普通の知識・判断力。「ーに欠ける / ーを(はるかに)超えた / ーを覆す / ーはずれ……
 ここまでは普通すぎて新解ファンとしてはガッカリだろう。(ことが要求される)という部分が、やや新解さんらしい親切さを感じさせるが、爆発力が足りない。しかし、ここから先に新解さんの本心が出てくる。
ー[ありふれた知識・考え]以上に一歩も出ない / ー論(=一応視野が広くて首肯できるように見えるが、専門的見地からすると成立しないと思われる考え[方]

 新解さんはさりげなく常識の弊害についても言及している。当たり障りはなくって、問題なさそうな議論であっても、学究肌の新解さんにとってはそれはつまらないのである。更に、新解さんの解説は続く。「常識家」の意味は次のとおりである。

常識を備えている人。(ひらめきを有しない人や、冒険をしない平凡な人の意にも用いられる。)

 新解さんの本心はカッコ内にあると思う。更に「常識的」に至ってはもっと辛辣だ。

[「専門的」ではなく]だれでもしっていて(考えつくような程度にとどまり)特に鋭いとか優れているとか変わっているという印象を与えない様子だ。

 新解さんにとっては「常識的」というのは全く褒め言葉ではないようだ。ブログでも日常でも、「常識」をタテにして議論を進めようとする人達というのは少なからず存在する。相手の意見に対して「それは常識ではない」というので意見を封じようとする。なぜそれは常識ではないのか、根拠は何なのかを問おうとすると「そんなことを言うのは常識がないのだ」という感情的・道徳的議論にすり替える。きっと善良で、周りの人から「常識的な人」という褒め言葉をもらいながら生きているのだろう。しかし、新解さんは、常識という名の思考停止の方を嫌っているように見えるのだ。きっと新解さんも「常識家」から冷たい視線を浴びたことがあるのだと思う。


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2006.07.25

新解さんはずっと前からこの世相を予見していた、間違いない

[][] すごく久しぶりに、新解さんの話。

 「俗人」というと、どんな意味が最初に思い浮かぶだろうか? 例えば、「明鏡国語辞典」を引いて見ると、第一義は次のとおりである。

世俗の名利にばかりとらわれて精神活動に関心の薄い人。また、実利にばかり心を奪われて学問や芸術に関心の低い人。

 大概の人が「俗人」の意味として最初に思いつくのはこの意味だと思う。しかし、我らが新解さんは違っていた。上に挙げた意味は二番目に来るのだ。手元にある新解さんの第三版、第五版に載っている「俗人」の1番目の意味は次のとおりである。

高遠な理想を持たず、すべての人を金持と貧乏人、知名な人とそうでない人とに分け、自分はなんとかして前者になりたいと、そればかりを人生の目標にして・暮らす(努力する)人。

 そればかりをというのが痛烈である。ちなみに、第三版が出版されたのは1982年。この段階で、新解さんは現在の「勝ち組・負け組」社会を予見していたのだ。ちなみに、2番目、3番目は次のとおり。

天下国家の問題、人生いかに生きるべきかということに関心が無く、人のうわさや異性の話ばかりする人。
高尚な趣味や芸術などに関心を持たない人。

 両方とも、多くの人が割と思いつきやすい「俗人」の意味である。しかし、新解さんは、「人のうわさばかりする」よりも「高尚な趣味や芸術に関心がない」よりも「何とかして勝ち組になりたいと、そればかりを願って生きている」方を「俗」だと決めつけているのだ。何という皮肉。


 しかしながら、最新の第6版では、もっとあっさりした解説しか載っていない。

[高遠な理想を実現させるためには全てを犠牲にしても惜しくはないなどといった考えは持たず]世間的な立身出世にあこがれたり、自分の家族の幸福を願って生きる、ごくありふれた常識感覚を身に付けている人。

[ ]内が新解さんらしさを感じさせるが、第3版から第5版までに見られる切実さは感じられない。残念ながら、私達は、「俗人」の意味を簡単に実感できる世の中に生きるようになってしまったからだろう。新解さんは「分かりにくい言葉の意味を分かりやすく説明する」ことに燃える人だが、「勝ち組に何とかしてなりたい人」が溢れているこの世の中では、そこまで解説しなくてもいいやという気になったのかもしれない。

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2006.02.01

2006年にしてナンシーを想う

 2002年の6月にナンシー関はこの世を去った。あれから4年近く経ったが、本当に残念なことに、ナンシーほどテレビを深く見つめテレビに対し深い愛情を持っている人物は現れていない。いまだに、ふとした時に私は「ナンシーだったら何て書くだろう」と考えることがある。納得が行かない人物を見た時、自分が全く面白くないと感じる番組が人気だと知った時、なんか変だなと気付く時、私はいまだに「ナンシーの言葉」を探す。
 ナンシーが亡くなった直後、安達祐実・黒田アーサー熱愛報道があった。ナンシーは絶対に何か書いたはずだ。最近だったら、ヒューザーの小嶋社長、姉歯元建築士は絶対彫っていたはず。お笑いブームをどう捉えるか(私自身は、このブームはダウンタウンの存在なしにはなかったと確信している)、和泉節子、デヴィ夫人、そして細木数子と続く「説教熟女」系列がなぜ続くのか、去年の紅白ってどうよ、最近の新日本プロレスってもうダメじゃないすか、等々ナンシーの言葉を必要とする事象はたくさんある。

 現在、テレビについてのコラムを書く人物は複数いるが、誰もナンシーには至っていない。例えば、ペリー荻野は時代劇専門なので、それ以外は語ろうとしない(しかし、時代劇については他の追随を許さないところは凄い。本当に時代劇を愛している)。そんな状況の中でいつもテレビについての苦言を言っているのは麻生千晶である(笑) この人何者なのかよく分からないのだけど、マスコミが「下らないテレビを斬る人物」として用意されるのはいつもこの人である。ナンシーが生きていた当初からそういう雰囲気はあったが、ナンシー以後は特にその傾向が強くなった。そんな麻生千晶についてはパブリックドメイン説があるがそれは置いといて、マスコミの人達はナンシー関を「テレビにいつも苦言を呈している人物に貶めようとしていたてのは感じる。全ての視聴者をなめるなよ。


 ナンシーと麻生千晶とで決定的に違うのが、「テレビを批判することで自分をどういうポジションに見せるか」ということである。麻生千晶は、明らかに「まー私みたいなお上品で知的な人間には、こんな番組理解出来ないざますわ」というスタンスである。なら、そんな番組見るなよといつも読者は思う。しかし、ナンシーは違う。自分を全く偉かったり知的に見せかけないのだ。これは非常に難しい。誰かを馬鹿と批判する。そうすると、批判する側は批判される側よりも上に立っていると思い込んでいるのだと思われがちである。本当にそう思い込んでいる時もあるし、そういう意図はない時もあるが、とにかく「誰かを批判する=相手を下に置く」と読者は思いがちである。しかし、ナンシーは違う。自分は決して上に置かない、または自分を上に置いていると読者に全く思わせないように気をつけて文章を書いていた。

 
 自分を高く見せるためではなく、単に馬鹿に見えたものを馬鹿と言う批判は、実は相手にとってダメージが大きい。誰かが一生懸命隠しているもののほころびを見てそれを的確に書くナンシーは、自分を高めるために悪口を言う人物よりも数倍やっかいだったろう。ナンシーはただ自分が大好きなテレビがダメなことをしているのを許せなかった。ナンシーがテレビを見捨てる日を見なくて良かったとは思う。でも、今のテレビは果たしてどれだけナンシーに応えられるのだろうか。

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2006.01.04

山形浩生 「新教養主義宣言」 晶文社

 もう5年近く前に出版された本だが、おそらく書いた当時よりも5年後の今の世の中の状況をもっともよく表してしまっていると思われる。山形浩生はやっぱりすごい。まあいろいろある人ではあるが、仕事の内容は面白い。口が悪い? 確かに字面は良くないが、「口当たりはいいけど、何の役にも立たない」言葉の方がずっと害悪だと思っている私にとっては、実のある内容や彼自身の態度を的確に伝えようとする彼の言葉は上等なものだ。問題を指摘された時には、それが事実である場合には謝っちゃうし(笑) セクハラ野郎? んー、ただ単に頭の悪い女が嫌いってだけのように思えるけど。それってセクハラ? 当たり前じゃないの? 誰か教えて。


 それはともかく肝心な内容。「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」よりも「87」の方に似ているような感じがする(両方とも橋本治ね)。……って全然分からんね、これじゃ(笑) 本書の言いたいことを無理矢理まとめると次の通り。


 例えば、複雑な筋書きの映画を観ていて、途中で「本当に理解出来なくなる」人がいる。しかし、現実世界は作り物の映画よりももっと複雑だ。映画ごときで落ちているこーゆー人は、現実世界で大丈夫なのか? 別に知識があるからいいってもんじゃないけどさ、すっごいみんな不安そうなんだけど。知識のベースとか文化の基盤みたいなものって明らかに狭いしね。しかも世代をまたがる文化や教養ってのも日本にはないんじゃない?


 私は職業柄、超年上の先生か大学生or院生というのが周りに多い。「若い者と話が通じない」という友達の愚痴もちらほら聞くようになったが、私自身はあまりそれは感じない。勿論「直接体験」の話では世代差は感じるが、「話がかみ合わない」のは年齢の差のせいではなく、価値観の違いだと基本的には思っている。共通する価値観、共通する知識があれば、伝えたいことは通じるものだと楽観的に信じている。というか、そうでも思わないと先生業なんてやってられないので。
 でも、時々、本当に知識ベースが狭い人っているものである。いわゆる「学力」的な頭は良いにも関わらず、である。しかも、知らないことに全く逡巡がない。振り返ってみれば、中学高校の時にもそういう人は確かにいたが、別に私には関係ないやと勝手に思っていたので(向こうも同様だったろうが)どうでもよかった。しかし、今はどうでもいいと切り捨てるわけにもいかないことがある。複数で話をしていて盛り上がっているところで、突然「で、それって何ですか?」と言われると困ってしまう。今までの話は何だったんだって。そこで私の悪い癖で「それって釣りか?」と思い込んで、時々大ウソふっかけてみたりするので、私をひどい人だと思っているであろうなあ(笑)
 

 それはともかく、ネットでも時々恐ろしくベースが狭い方にお目にかかる。いわゆる炎上系ブログはそうだ。有名な炎上系ブログの管理者の多くが「自称・大学生」なのが気になる。で、文章読んでると、学校的なアタマの能力は低くなさそうなんだ(笑) 「しゃべり場」とか「読書感想文優秀賞」みたいで。高校までは自分の価値観と先生の価値観、家族の価値観が全て合致して、きっとうまくいってたんだろうね、でも大学だと褒めてくれる先生もいないし、というのが想像出来る。ま、釣りかもしれないけどね。


 この本は雑多な内容の割に一貫した考え方を感じさせる。 「選挙権を売ろう」とか「画期的不況解消策」とか面白い思考実験がたくさんある。これを読んでいろいろ考えて面白がる人が増えればいいのだろうけど、きっとそうはならないんだろうなあ。

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2005.09.18

専門雑誌の世界

mizu VOW(雑誌「宝島」の投稿コーナー。「街のヘンなもの」で一部で非常に有名)読者でなくとも、専門雑誌・専門新聞は楽しい。私の知っている人は昔、新聞の勧誘に熱心に勧められて「工業新聞」を取っていた。何一つ専門用語が分からないのに楽しいと言っていた。電車の中でも「紡績新聞」を読んでいる人を1年に1回くらい見かける。アパレル業界の人なのかもしれない。
 大きい書店は専門雑誌の宝庫だ。そういう雑誌を全然意味が分からないながらも眺めるのは楽しい。こういう雑誌って、「山と渓谷社」のように雑誌名をそのまま社名にしているところが多いのが不思議である。「新ハイキング社」とか。本当に「新ハイキング」しか出していないのだろうか。
 実はこういう専門雑誌は、別に書店に行かなくても新聞の広告で結構楽しめる。我が家では某Y新聞を購読している。別に巨人ファンではないのだが、新刊書籍、CD、音楽情報、古典芸能の情報が圧倒的に多いので(笑) 歌舞伎なんて、渡辺保氏が相変わらず厳しいこと書いてるぞ。そんなことはどうでもいいか。新聞の1面の一番下はいつも雑誌や書籍の広告である。15段広告て言うんだっけ? 専門用語があったはずだが忘れた。そこは専門雑誌のパラダイスである。今回紹介している月刊「水」もその中にあった。
 写真がピンボケなのは私の写真がうまくないせいもあるが、人名が書いてあるので問題があるかもしれないからである。この月刊「水」の11月号座談会タイトルは、次の通りである。

業界激戦区汚泥脱水機市場でスクリュープレス受注好調で天馬空を行く石垣戦略

全く意味不明。

 「汚泥脱水機市場」が「業界激戦区」だったとは知らなかった。しかし汚泥脱水機市場ってどんなの? スクリュープレスって何? 石垣って誰? 分からない単語ばかり。この36文字のうち、24文字が漢字である。カタカナは「スクリュープレス」の7文字。非常に情報量が多い。「〜で」が2回続くのが文章読本的にマイナス。直しませう。そして、他には「四国の清流海部川の水質調査評価」や「熱海の水と温泉」といった小論の見出しが続く。どうも上下水業界の専門雑誌らしい。左側に

'06水の技術者研究者名鑑

というのもあるし。


 この雑誌広告を見て私が連想したのはタモリ倶楽部である。「毎度おなじみタモリ倶楽部でーす」とやる気なく番組を開始するタモリ、「タモさんタモさん、今は水ですよ!」とつかむガダルカナル・タカ、既に水を飲んでいる江川達也、水を飲みながらうんちくをたれるなぎら健壱or松尾貴史といった、タモリ倶楽部プロトタイプ的風景があっという間に想像出来た。専門雑誌はタモリ倶楽部に通ずる。何のこっちゃ。

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2005.04.30

バブル女性雑誌と「UOMO」

 もう30代40代「自称勝ち組」対象の雑誌について何も考えたくないのだが、オリエンタルな紅茶の人にこういうエントリを書かれてしまったので、こちらも考察してみることにした。「UOMO」に対して思うところがあると書いてしまったし。それにしてもロジックなテキストの中の人はかなりのアホである。無自覚なバカは何を言っても無駄なのに(逆にこちらをバカ呼ばわりするであろう)、こうして時間をかけて、ほとんどの人がスルーするエントリを書いている訳である。

 「UOMO」という雑誌が最近出版された。あの「LEON」とは一線を画した(つもりの)40代男性向け雑誌である。バブル以前は30代後半から40代のファッション雑誌というのは、男女問わずあまり多くは存在しなかった。ファッションは20代までのものだった。当時は30代になったら大体の人は結婚して、子供もいて、家も買ってとなって、自分のために使えるお金や時間がそうなかったからだと思われる。結婚して子供もいるいい大人があまりチャラチャラしてちゃいかんという風潮もあったのかもしれない。私の親の年代は、大体そうだ。しかし、今のメディアの顧客層である30代後半から40代は、バブル期にちょうど大都市で大学生かもしくは社会人初期だった人達だ。一番人生で自分のために使える金と時間があって、それをバリバリ使える体力や若さがあった時期がバブルという人達。その人達が年を取って、結婚したり子供ができたりしても、価値観が変わる訳がなかった。バブルに踊らされた人達の中では、実際に金持っているか、または金のあるフリができる人が勝ちだった。恐ろしく単純な価値観の心地よさを知っている人達がその価値観を簡単に変える訳がない。
 そんな中で出版されたのがあの「VERY」である。バブル期に「JJ」を愛読していた世代のための雑誌というコンセプトで作られている。今の雑誌業界の流れを考えると、エポックメイキングな雑誌だと言える。好きじゃないけどな(笑) 三浦りさ子という、バブリーな存在を目印にしているのも絶妙である。そのうち「VERY」を愛読していた世代も年を取ってきたので、新たに「Story」を作った。バブルの人達は踊らされ過ぎではないかと思うのだが、どうもこの年代は「私も私も」という連帯が欲しいように見える。そんなに金持ってるんだったら、他人が持ってない物買えばいいと思うんだけど、なぜかそうならないんだねえ。なぜなら、この連帯感は「幻想」を生むからだ。本当の勝ち組との連帯感を持つことによって、自分もそっち側だと思い込むことができる(ちなみにこの「連帯感」は、バブル世代だけでなくその後の年代にもかなり強く影響しているように見える。既にバブル世代が中高生の親になってるからか?)。目に見えない読者同士の連帯を強めるために、この手の雑誌は必ず一般の人にはよくわからないモデルがシンボルになっている。「一般の人もよく知っている人」だと連帯は強まらないからだ。多分そうだ、間違いない。
 このバブル時代を取り込む流れの中で、もっとイケイケ(ってのも死語だ)になったのが、「NIKITA」や「Glitter」ではないか。「よくわからんモデルを使う」ことによる連帯感の打ち出しは弱くなっているが、「モテ」とか「若さ」とか人間の下世話な欲望にダイレクトに働きかけることで別の連帯を生んでいるのだろう(やたらと「下ネタ」が好きな人って、変な連帯感を強制するような感じがする。下ネタ自体は別に嫌いではないがね、そういう連帯感はうざい)。

 そして今、この女性誌の流れは、男性にも波及している。今まで全くといっていいほど顧みられてこなかった30代、40代男性のファッションが問題となっているのだ。やっぱり「Very」とか「Story」の人のダンナがやぼったかったらまずいからだろう。ここでやっと話が「UOMO」に帰ってきたが、この雑誌の表紙はアンドレというモデルである。この人誰?「アンドレ」といったら、「ザ・ジャイアント」(もう故人だよ)か「オスカル」(ベルばらかよ)か「カンドレ」(井上陽水かよ)しか連想できない。全部古いわ。しかしこの誰だかわからない人を目印にするというのは、既に女性誌で確立されている「連帯感を強める効果」を狙っているのであろう。それがうまくいっているのかどうかはよくわからないけど。そして、金という単純な価値観を持ちつつも、「年齢的にそれも恥ずかしいし」ということで、日本文化のお勉強を始めたりするんだが、そこで扱われるのが修善寺の「あさば」て。知らない方に解説すると、修善寺の高級温泉旅館で、能舞台があって、各部屋から舞台がみられるようになっている旅館である。1泊5万くらいする。フツーに国立能楽堂とか歌舞伎座とか行けばいいのにそれはおそらくしない(「あさば」に特に恨みはないが)。このようなヌルいお勉強特集も、女性誌の定番である。「UOMO」が「LEON」とビミョーに違うように感じられるのは、女性誌のフォーマット感が強いせいかもしれない。どっちがいいとかそういうことではなくて。

 私は別に今の30代、40代の全部が上のようだとは思わない。というか、逆に身近な人で、雑誌に出てくるようなバブリーな人にお目にかかったことは全くない。職業柄しょうがないか。バブルはあったかもしれないけどあまり恩恵がなかった人達か、昔は恩恵があったかもしれないけど今はホントにそれどころじゃないよという人達しか私の周りにはいない。しかし地味に働く大部分の30代40代ではなく、一部のイケイケを対象にした雑誌が続々出るということはどういうことなのだろうか? わかりやすい顧客だからとしか思えないのだが。
 ちなみに、南郷さんはblog界でも「勝ち組・負け組」が感じられると書いておられるが、私も時々「勝ち組連帯感の存在」を感じるときがある。敢えてどこがどうとか書かないけど。

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2005.02.05

イトシイトシトイフココロ 〜新解さんと純愛ブーム〜

「恋」の旧字体は、↓のように書く。



「糸(イト)シ糸(イト)シと言フ心」と書いて戀。しかし今の字体には「イトシイトシ」はない。もしかするとそのせいで恋の本質から「いとし」の思いが薄くなってしまったのかもしれない。
 そこで、新解さんである。実は新解さんの第3版までは、「恋」の語義は、単なる「れんあい」でしかなかった。その「恋愛」の意味は、このエントリで書いた通りである。「出来るなら合体したい」の恋愛である。第3版当時の新解さんの「恋」には、「いとし」の感情よりも「合体への欲求」が勝っていたらしい。
 しかし、第5版以降を見ると、「恋」の語義は次のようになっている。

特定の異性に深い愛情を抱き、その存在が身近に感じられるときは、他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感・充足感に酔って心が高揚する一方、破局を恐れての不安と焦燥に駆られる心的状態

これは、純文学ですか?

 前半も素晴らしいですが、「破局を恐れての」以降が非常に素晴らしい。そう、恋は単に心が高揚するだけではないのだ。常に不安と焦りに満ちているのが恋。しかし、第5版にきて、新解さんに一体何があったのだろう? 煩悩を超えて、「純愛」に憧れる新解さん。
 そして、あの「恋愛」も第6版はまた語義が変化している。

特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情を抱き、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたといっては歓び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと

もう新解さんには、肉欲はないらしい。ないかどうかは分からないけど、少なくとも表には出さなくなってしまった。大人になってしまったのだろうか? しかし、別の意味ではとても熱い。「他の全てを犠牲にしても悔い無い」だって。「傷だらけのローラ」ですか(喩えが古い)。ただ、「思い込むような」というところに新解さんのちょっと冷めた心が感じられるのは私だけだろうか?
 新解さんは、現在の「純愛ブーム」を予見していたのかもしれない。もしかすると、あの世間に厳しい新解さんも、今、「冬ソナ」にはまっていたりして。

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2005.02.04

超実践的外国語習得方法

 書店に行くと、本当にたくさんの外国語の教材が置いてある。つまり、それだけ外国語を身につけられる人がいないということである。本当に英語とか続かないよなあ。その大きな原因は教材や環境にある。
 大体教科書ってつまらないし、役に立たない。元サッカー選手のリトバルスキーが、初めての日本語のレッスンで、今までの教科書をパラパラめくって、
「こんなのじゃ役に立たない。銀行や買い物などで使えるような言葉を教えてほしい」
と言ったそうである。そのため、リトバルスキーのために独自の教科書が編み出され、その教科書は今やドイツでも日本語教材として使われているそうである。現在のリトバルスキーの日本語を聞く限り、その教科書は非常に役に立つように思われる(もちろん本人の努力と能力もあるが)。
 また、外国にしょっちゅう行くか、日本にいても外国人相手に話さなくてはならないという人を別にして、日本にいて外国語を話す機会ってどれだけあるか? おそらく殆どないだろう。知識や技能は、せっかく習得しても、使わないとすぐにダメになる。


 実は先に述べたリトバルスキーの今の奥さんは日本人である。

つまりそういうことです。

 日本にいながら外国語を上達させるには下心しかない! あの千昌夫だって、きっと英語はペラペラだ。そういう理念に基づいているのかどうかは分からないが、超実践的な外国語会話集が存在する。

 まずは、「男と女の会話集 中国語」という本である。この本、確か「トンデモ本1999」で扱われていたと思う。今までの中国語会話教材とは違ったとても実践的な教本なのだが、気になるところがある。それは、「男と女の」と銘打ってあるが、明らかに

男が日本人で女が中国人である。


 ちなみに、タイ語版と韓国語版もある。また、「大人のイラスト会話集」という本もあるのだが、こちらは、タイ語フィリピン語北京語が発行されている。

もう日本のオヤジなんか大嫌いだ。

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2005.01.31

スラムダンクの続きは、私達の頭の中にある

雑誌「SWITCH」の今月号の特集は「スラムダンク」である。高校時代、本当に「スラムダンク」が大好きだった(今も好きだけど)私は早速それを買った。職場の人が「近くでは売り切れていた」というので、改めて新宿の某書店に行ったが、そこでももう売り切れていた。昨日は10冊くらいあったはずなのに。おそらく私と同じく「スラムダンク」目当てで買った人が多かったのだろう(残念ながらマッチや横山剣ではないと思う)。
 この前、神奈川にある廃校となった高校の黒板に、井上雄彦は「最終回(残念ながらあれで本当に終わりらしい)の10日後」の話を書いた。それを改めて雑誌に収めたものなんだが、不思議なことに、高校生だったあの頃と同じ感情で読めるのだ。ストイックな熱さと、現実的制約から来る悩みを、あの頃のように感じるのだ。
 「スラムダンク」は、「少年ジャンプ」という小学生高学年男子も読むような雑誌に連載されていたが、おそらく小学生には理解できなかったと思う。「バスケってカッコいい」とか思ったかもしれないけど、花道や赤木や流川の思いをなぞって読むのは無理である。その当時の現役高校生、高校生予備軍のませた中学生、そして元高校生だった大人が読んでいたんじゃないだろうか。
「スラムダンク」は、もうあれで本当に終わりらしい。あれだけの個性的なキャラクターをたくさん登場させてしまったら、もう話が収拾つかないかもしれない。あれから彼らはどうしているのか、それは私達が想像することである。



 それはそうと、職場の人と「スラムダンク」の話をしていて、

「やっぱり結婚するならメガネ君よね〜」

 ということで合意した。やっぱりそりゃそうでしょう(笑) もしくはゴリ。

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2005.01.16

私も前々からーと思ってました。

 ことばというものは、意味だけ知っていても、その適切な使い方を知らないと本当に知っていることにはならない。ことばの適切な使用法を知り、実際に使うことによって、本当に身に付いていると言えるのだ。という思想があるのか知らないが、「新解さん」こと新明解国語辞典は、やたらと用例が充実している。時々くどいくらい充実している。しかも、その用例が微妙におかしいことが多いのだ。新解さんは基本的に「実感」にこだわる。語義についてもそうだが、用例も実感あふれるものを作成しているようなのだ。

 その中で私が好きなのは「せこい」という言葉の用例である。実は、「せこい」の用例は、第3版、第5版、第6版で全て異なっている。第3版では次のような用例となっている。

ー(せこい)奴だと思ったけど、やっぱり何かやったんですね

一体何をやったんだろうか?

 「ー奴」だと言うからには、多分強盗とかそういうダイナミックな犯罪ではなく、横領とかマルチまがいのちまちましたことをやったんだろうな。次に、第5版。第5版の1番目の意味である「けちだ。」の用例もなかなかなのだが、2番目の意味である「狭量だ。規模が小さい」の用例がもっとおかしい。

世界征服をたくらんでいるというわりには、どうして幼稚園のバスをねらったり、子供をさらったりと、ーことばかりするのだろうか / ただ、ぼくらは宇宙船から見た地球をボケーッと見ていたいのに、やたらにスタジオにカメラを切りかえ、タレントたちにムリヤリしゃべらせたりするのは、宇宙の広大さにくらべて、ちょっと発想がー。

 おそらく、1番目の文は、仮面ライダーのショッカーのことだ。私も子供の頃から、彼らのやっていることはーと思っていた。一番規模が大きかったのは、「富士山を爆発させる」話だった。しかし、その他の回で彼らがやっていることは、世界征服とはほど遠いことばかりだった。そんな体たらくだから、たった一人のライダーに毎回やられてしまうのだ、とずっとずっと思っていた。新解さんもそう思っていたんだね。
 2番目の例文も、たかだか「せこい」の用例にしてはやたらと力が入っている。くだらないテレビは嫌いらしい。

 しかし残念なことに、第6版ではこれらの例文がなくなってしまっているのだ。その代わり、こんな用例が載っている。

百円ショップで売っているのと同じ品を九十八円ショップで買ったといって喜んでいるのだからー

 新解さんもダ○ソーでお買い物しているらしい。悔しい思いをしたこともあるんだろうな。
 それにしても、なぜ「世界征服」の用例がなくなってしまったのか。きっと今の特撮ものが、「世界征服を狙う悪者をヒーローが倒す」という単純な話でなくなってしまったからだと思う。今の特撮って、話難しいですよね。ライダー、複数出てくるし、その複数のライダーでもめたりしているし。仲良くやれよ!このように、この例文が現在の状況に適さなくなってしまったので、なくなってしまったのだろう。辞書も結構大変である。

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2005.01.10

新解さんふたたび

  新解さんこと、新明解国語辞典の第6版が発売された。第2版と第5版を持っているにも関わらず、やっぱり買ってしまった。第6版と版を重ねるごとにどんどんとパワーアップしたり、パワーの方向を修正したりする新解さん。早速見てみよう。

 私が好きな項目の一つに「世の中」がある。この「世の中」の語義は、第2版から第5版までは次のように書かれていた。

同時代に属する社会を、複雑な人間模様が織り成すものとしてとらえた語。愛し合う人と憎み合う人、成功者と失意・不遇の人とが構造上同居し、常に矛盾に満ちながら、一方には持ちつ持たれつの関係にある世間。

ものすごくドキドキする。

 常に矛盾に満ちながら、一方には持ちつ持たれつの関係にある世の中。ドラマティック過ぎ。しかし、何となく東海テレビ製作の昼ドラのようでもある。あなた自分の身分をわきまえないよとか、僕は○○を愛しているんだとかそういう台詞が飛び交っているような世界。出てくるのは、渡辺裕之と高木美保だ。いつの時代だ。
 新解さんはそれに思い当たったのか知らないが、第6版では次のように「世の中」を定義している。

社会人として生きる個々の人間が、だれしもそこから逃げることのできない宿命を負わされているこの世。一般に、そこには複雑な人間関係がもたらす矛盾とか政治・経済の動きによる変化とかが見られ、許容しうる面と怒り・失望を抱かせる面とが混在するととらえられる。

だれしもそこから逃げることのできない宿命を負わされているこの世。世界は東海テレビから、「影の軍団」とか「大江戸捜査網」とか「特捜最前線」にシフトしてしまった。おそらく新解さんは今の世の中について諦めてしまっているのかもしれない。「希望格差社会」の影響はこんなところにも現れているのか。他にもいろいろと新解さんの変遷はあるのだが、長くなるのでまた今度。

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2004.12.24

アホウドリの糞でできた国

 本ブログでも何度かナウル共和国の話を取り上げたことがありますが(例えばここ)、ついに、ついに、ナウル本が出たそうです。「アホウドリの糞でできた国」という本です。筆者は、そのナウルのことを広くネットで知らしめた、あの適宜更新さん(というか、私も適宜更新さんのブログでナウルのことを知ったのですが)です。そして、イラストは、かの寄藤文平さんです! すごいですね。表紙のアホウドリのイラストが可愛いです。
 先ほど、アマゾンでみてみたら「在庫1点」とあったので、ついポチッとしました。週末には届くでしょう。読むのが楽しみです。だからもうアマゾンには在庫はありません。残念! 発売されたばかりなのにね。とにかく、嘘のような真実のナウルの話を堪能すべく、みなさんも本屋でアホウドリの表紙の本を探してみてください。あ、別に回し者じゃないですよ。

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