「日々カタログ。」取扱説明書

 ココログのバージョンアップに伴い,「この記事をブログのトップに表示」というのが出来るようになったそうなので,その機能を利用して,コメント,トラバ,リンク方針をこのエントリで書いてみます。一応念のために書いておくと,この注意書きは「一般的に正しい」ものではありません。このブログの中の人の考えです。ですので,「修正してやる!」とか言われてもどうしようもありません。

・コメントの方針
 メールアドレス,URLの欄はご自由に。名前はできれば入れて下さい。でも入れなくても投稿可能です。ただし,スパムの疑いが高いコメントは,認証画面が出てきます。その画面の指示に従えば,投稿できます。
 基本的にコメントは消しません(明らかなスパムでない限りは。でも,認証制度にした途端になくなったな)。しかし,絡みにくいコメントに対してはレスしないこともあります。申し訳ないです。

・トラバの方針
 認証は特にしてません。トラバ伺いとか全く不要です。というか,面倒くさいからそういうのはなるべくやめて欲しい。どんどんご自由にトラバして下さい。ただし,トラバを時々消すこともあります。
  1.言及トラックバックは,絶対に消しません。私の書いた記事に対してアホだのバカだの書いてあっても,それで消すことはしません。
  2.ブログ名とブログエントリの名前が同じ,あるいはブログエントリかブログ名がない場合のトラバは即座に消します。どう見たってスパムだもの。1と2が被ったらどうするかって? それはない。
 3.アダルト系からのトラバは一応消します。1と3が被ったらどうするかって? それはない。
 あと,言及したら必ずトラバしろ,とは言いません。勝手にリンクして全く構いません。でも,「コバヤシにもの申す!」な人はトラバ下さい。

・リンクの方針
 どうぞ勝手にリンクして下さい。どこにリンクしようが全く構いません。お気に入りに入れようが,巡回リストに入れようが,ブックマークしようがどうぞご自由に。お願いメールなんか別にいらないっす。あ,某消滅のウワサがある掲示板に晒す時は,httpのhは抜いとけ(笑) 一応気になるから。
 ただし,「相互」リンクのお願いは原則として受け付けません。や,面白かったらいいですけど,そうでな(略)

・メールについて 
 一応メールフォームを用意しています。こっそり言いたいことがありましたらご利用ください。ただし,返事は絶対とはいいません。1/3の確率でしか返事しないと思います。ごめんなさい。

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2008.05.14

相対化していることは別に中立でも,ましてや頭が良いわけでもない。

 pokoponのお兄さんが,最近ネットでちょっと話題の「水からの伝言」騒動でいろいろな方と対話している。もはや,争点は「水からの伝言」そのものじゃないんだけど。「水からの伝言」という話を知らない方に少し説明しておくと,水に「ありがとう」などの「よい言葉」をかけると美しい結晶ができるんだけど,「ばかやろう」などの「悪い言葉」をかけると汚い結晶ができるというものだ。それだけならちょっとした笑い話なんだけど,「だから人にもいい言葉をかけましょうね」という道徳の教材に使われたことで話題になった。
 こんな話をまともに批判してもしょうがないと思うんだけど,この話は科学的に妥当な事実ではないし,科学的に妥当な理論も存在しないし,まして,「美しい結晶ができる→だから人にも」という論理展開もイミフメである。しかし,このような話を真に受ける人をここで長々と批判する気はない。ネット上でも書籍でも批判は出尽くされているし,私の飯のタネの1つだからである。
 更に,最初の騒動(詳しいことは玄倉川さんのエントリにまとめられている)の時点では,この話は「科学をどう思うか」についての論争が「共感文化圏と議論文化圏との衝突」になってしまった例だと考えていた。今もそう思う。で,当ブログでは共感文化圏と議論と転載とというエントリを既に書いている。元はYahoo!ブログの「転載機能」についての考察だが,この騒動にも当てはまるのではないか。読むのがかったるい人は,下に一部引用しておいた。

 共感文化の人は,こういう議論の仕方は「自分の否定」に見えるのかもしれない。なので,「自分の気持ち」を分かってもらうべく,「相手が自分を否定した(必ずしもそういうわけではないんだけど)ことへの非難を表明すべく」,言葉を尽くして「議論」する。

 しかし,この騒動はまだなぜかくすぶっている。共感文化が相変わらず関係しているのは間違いないのだが,どうも前よりも面倒になっている気がする。
 この騒動の過程でpokoponのお兄さんがこんなエントリを書いた。論争があると必ず「中立」を気取る人がいるけど,例えば,進化論と創造論の「中立」ってないだろう,2つの話は全く位相が違うのだから,その位相の違いを無視して「中立」って言ってるのって恥ずかしいっすね,という内容だ。
 で,このエントリを読んで思ったのだが,前の騒動と違って,「私は中立ですが……」とか「私は○○の味方ではないのですが,少し折り合えないものでしょうか」みたいな人が目立つのだ。


 なぜ「中立」なのだろう。中立とは,どちらの味方でもなく敵でもないということだ。この論争に限らず,何か論争があると「Aはここが問題があるし,B はここが問題。だからどっちもどっちだよね」と中立を気取る人が必ず現れる。もしかすると,「中立=頭いいオレ」ってことなのか。確かに論争をしていると,どちらにも何かしら問題点はある。「オレはその問題点に気が付いたぜ。そんな問題があるから両方に味方しないオレってカッコイイ!」ってことなのか。
 この推測はあまり合っていて欲しくないのだが,一応言っとく。A説に賛成である,あるいはB説に賛成であるからといって,自分の論に欠点があることに気が付いていないわけではない。科学的論争においては,必ずA説とB説の相対化が求められる。A説もB説も説明出来ること,A説が説明出来てB説が説明出来ないこと,逆にB説が説明出来てA説が説明出来ないこと,A説もA説も今のところ説明出来ないことというのを把握する必要がある。その上で,「今までA説で説明出来なかったことが説明出来るように,A説を改良する(A'説)」といった作業をする。まあ,確かにネットでは自説の欠点に目を向けない人もいなくはないんだけど,知的誠実さには欠けるだろう。
 で,もしA説でもB説でも問題があってどちらも自分は取れない場合は,どうするか。AとBを止揚させたC説を作るとか,全く新しいD説を作るなどする。そこまで出来なくとも,対立する説を止揚するための方向性を示すなどする。中立なんて絶対に言わない。C説
もD説も,A説やB説に対して,もはや中立ではないだろう。本当はそこまでしないと頭が良いとは言わない。


 あと,やたらと「折り合え」とかいう人がいる。折り合えと言ってる割には,片方だけに「お前が頭下げれば解決するんだ」と言っている風に見えるんだが,そんなことはどうでもいい。でも,例えば「天動説」と「地動説」のようなものに対しては,何を折り合えばいいのだろう? あと「折り合え」と言っているのであれば,何をどのように折り合うのか提案すればいいと思うが,それはしない。
 「折り合い好き」というのは,「いい人だと思われたい病」としか思えない。「ほら,これはあんたが全面的に悪いんやから頭下げるんやで! でも,あんたもなあ,ちょっと言い方っちゅうものがあるやろ,気いつけや」みたいな世話焼きオバサンになりたいのだろうか。それなら最後まで世話焼けばいいのに。両方に「うっせ,クソババア!」と言われるの覚悟で。でも,それはしない。


 私は「中立」だの「折り合いましょうよ」とか綺麗事を言う人が嫌いだ。自分の頭の悪さをごまかし,いい人だと思われたくって,でも自分では何もしたくはない狡さを感じるからだ。何も意見がないなら,何も言わなきゃいいのに。あと,「共感文化=体験主義,議論文化=経験主義」という仮説も思いついたが,書くかどうかは分からない。「宗家もいいけど,議論もね!」とかコメントやはてブに書いて下さったら書くかもしれないけど,時間かかりそうなんで。

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きのうは定義したの(BlogPet)

きのうは定義したの?

*このエントリは、ブログペットの「コミヤマ」が書きました。

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2008.05.10

ビクター落語会(4月19日)

 この日のビクター落語会は,柳家さん喬,柳亭左龍の親子会。左龍がマクラで話していたが,親子会は初めてなんだそうだ。「今回が最初で最後かもしれませんよ〜」と言っていたが(笑) このビクター落語会は,落語協会所属で,かつ古典落語の実力者を揃えるようにしているらしいのだが,左龍はいいと思いますね(さん喬は既にレギュラー化している)。二つ目時代(「小太郎」だった頃)にも1回見たが,その時も上手いと思った。真打になってからはますます噺も体格も風格が出てきて何よりである。

 最初は前座。小ぞうの「金明竹」。先月は市朗で聞いたが,小ぞうの方がしっかりしているかも。
 左龍の「ふだんの袴」。これ,前に鈴本で市馬で聞いた。左龍のいいところは,どこか芝居っぽさがあるところだ。もしかすると歌舞伎が好きなのかな。登場人物を描く時に,写真やビデオのように表現するんじゃなくって,少しデフォルメする。というのはどの落語家もやっているが,そのデフォルメの仕方が歌舞伎っぽい感じがする。あと,市馬の時は「調子に乗ったバカ」に焦点を当てていたが,左龍だと「調子に乗ったバカを見て困惑する人達」に焦点を当てることで,お調子者のバカさを表現していたようにみえた。
 師匠のさん喬は,おせつ徳三郎の「花見小僧」。休憩を挟んで「刀屋」。さん喬は,映画というかリアルな演劇というか。天然ボケ気味の主人がいい。あと,ちょっとしたところでホロリとさせるのも上手い。後半の「刀屋」は,少し最初が重かったか。頭に血が上った若者に対して,刀屋が「昔ながらの忠義」を説くというのは今の時代にどれだけ通じるのか。
 で,ここまでで会場はかなりお腹いっぱいになってしまった。さん喬にじっくりたっぷり語られてしまったから(笑)
 トリに出てきた左龍は「もういいって感じですね」と自分でも言っていた。「前があまりたっぷりやるとやりにくい」とも。しかし,こんな雰囲気で始まっても,左龍にはじわじわと客を集中させる力があった。噺は「淀五郎」。
 マクラは,さん喬ネタ。師匠は踊りが好きで,昔国立劇場の舞台に立って「藤娘」を踊ったことがあるとか(笑) この一門は喬太郎もそうだけど,師匠ネタ好きだよね。
 「淀五郎」だが,最初に登場人物と当時の歌舞伎がどういう興行をしていたかを簡単に説明してから始めた。師匠との親子会でこの噺を持ってきたところに,左龍の並々ならぬ決意が感じられる。自分を取り立ててくれた人から,心無い(ようにみえる)仕打ちを受ける。一体何がダメなのか。懇意にしていた他の人物からの言葉で,自分に欠けていたものや自分の慢心に気付く。最初はちょっと疲れた感じだった会場も,みるみるうちに噺の世界に引き込まれていく。左龍,恐るべし。今後もビクター落語会で定期的に呼んで欲しい。

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読売日響定期(4月18日)

 スクロヴァチェフスキといえばブルックナーである。ヴァントも朝比奈も亡くなった今となっては,ブルックナー指揮者といえばミスターSということになっている。読響では6番を聴いたことがあるが,凄かった。指揮者やりたい放題。そしてミスターSが常任指揮者となってからも,ブルックナーの演奏は続いている。多分最後に音源をまとめて発売するのかも。それはともかく,名曲の5番はなぜか今まで演奏されてこなかった。
 やっと,ミスターS指揮のブル5が聴ける。ブル5のプログラムはなぜかこの日しかないせいもあって,チケットは早くに売りきれてしまった。
 会場に行ってパンフをもらったら,チラシが挟まっていた。「常任指揮者としての任期を2010年3月まで延長する」とのこと。1年延長か。年齢も年齢だから5年とかは無理だろうが,とりあえずめでたい。


 さて,この日のブル5だが,ありがちな「金管大咆哮」というものとは全く違った。それぞれの旋律を美しく響かせていく。去年のティーレマン&ミュンヘンフィルは「宇宙の爆発」的なブル5だったが,ミスターSは「春の息吹」のような感じ。小さな生命が次々に生まれていくというイメージ。
 第4楽章の前に,1回音合わせをしたが,あれのお蔭か,第1楽章との連続性が明確になったような気がする(そのためだけに音合わせしたとも思えないけど)。そしてフィナーレだが,今まではっきりと見えなかったものが急に隅々まで色鮮やかに見えたときのような驚きがあった。また,この日は指揮者が腕を下ろし少し経ってから拍手が始まった。本当に素晴らしい演奏会だった。


 あまりにも素晴らしかったせいか,この日はオケが舞台から降りた後も指揮者に対する拍手が続き,その拍手にミスターSも応えてくれた。懐かしの一般参賀を思い出す(故・朝比奈隆の晩年のコンサートは,いつもこんな感じで指揮者が出てきた。「一般参賀」と呼ばれていた)。舞台に残っていた団員もファンと同じように拍手している。
 その時,奥から一眼レフカメラを持って現れた人物がいた。よーく見たら。
 コンマスの藤原先生だった。
 ステージでは神妙な顔つきをしている先生が,にこにこしながら,ファンに応えるミスターSを撮っていた。最後の最後にもいいもの見た。

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2008.05.09

読売日響名曲シリーズ(4月12日)

 久しぶりにコンサートのエントリ。ずっと宗家ネタばっかりだったので,ちょっと緊張する。宗家のコンサートのことを書いているうちに一月経ってしまった。
 4月の読響はミスターSが指揮する。名曲シリーズの前半は「悲愴」,後半は「春の祭典」。今年で85になる指揮者のプログラムとは思えない。朝比奈隆が生きていた頃は,「会場で一番の高齢者が指揮者」というのがちょっとした宣伝文句だったが,ミスターSもそうなりつつある。……というかミスターSよりも高齢者はサントリーにいたのだろうか。

 「悲愴」だが,今まで聴いたどの「悲愴」とも違って聴こえた。今まで聴いた中で一番良かったのは,広上&新日本のものだったが,それとは違う。広上さんは焦燥感や嘆きを表現していたが,ミスターSは,もっと乾いていた。「虚しさ」が感じられる「悲愴」だった。あ,演奏が虚しいという意味じゃないですよ。
 第1楽章は,遠くから聴こえる波の音のように始まった。徐々に激しさが増していく。しかし,美しい旋律も何もかもが「虚しい」。華やかな日々も楽しい生活も,どことなく「虚しい」。最後も波の音のように音楽が消えていった。ミスターSにとっての「悲愴」とは人生の虚しさなのか。この演奏が好きかというと答えに困るが,考えさせられた。ファゴットの井上さんが良かった。
 後半は「ハルサイ」。大音量の派手なハルサイが好きな人には耐えられないだろうが,「こんなところからこんな音が」的な面白さがあった。ちょっとアンサンブルが乱れるところもあったが,楽しかった。どこか刹那的な感じがしたが。

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«「ソウケケ歌謡ショー」の真相(最終回)