pokoponのお兄さんが,最近ネットでちょっと話題の「水からの伝言」騒動でいろいろな方と対話している。もはや,争点は「水からの伝言」そのものじゃないんだけど。「水からの伝言」という話を知らない方に少し説明しておくと,水に「ありがとう」などの「よい言葉」をかけると美しい結晶ができるんだけど,「ばかやろう」などの「悪い言葉」をかけると汚い結晶ができるというものだ。それだけならちょっとした笑い話なんだけど,「だから人にもいい言葉をかけましょうね」という道徳の教材に使われたことで話題になった。
こんな話をまともに批判してもしょうがないと思うんだけど,この話は科学的に妥当な事実ではないし,科学的に妥当な理論も存在しないし,まして,「美しい結晶ができる→だから人にも」という論理展開もイミフメである。しかし,このような話を真に受ける人をここで長々と批判する気はない。ネット上でも書籍でも批判は出尽くされているし,私の飯のタネの1つだからである。
更に,最初の騒動(詳しいことは玄倉川さんのエントリにまとめられている)の時点では,この話は「科学をどう思うか」についての論争が「共感文化圏と議論文化圏との衝突」になってしまった例だと考えていた。今もそう思う。で,当ブログでは共感文化圏と議論と転載とというエントリを既に書いている。元はYahoo!ブログの「転載機能」についての考察だが,この騒動にも当てはまるのではないか。読むのがかったるい人は,下に一部引用しておいた。
共感文化の人は,こういう議論の仕方は「自分の否定」に見えるのかもしれない。なので,「自分の気持ち」を分かってもらうべく,「相手が自分を否定した(必ずしもそういうわけではないんだけど)ことへの非難を表明すべく」,言葉を尽くして「議論」する。
しかし,この騒動はまだなぜかくすぶっている。共感文化が相変わらず関係しているのは間違いないのだが,どうも前よりも面倒になっている気がする。
この騒動の過程でpokoponのお兄さんがこんなエントリを書いた。論争があると必ず「中立」を気取る人がいるけど,例えば,進化論と創造論の「中立」ってないだろう,2つの話は全く位相が違うのだから,その位相の違いを無視して「中立」って言ってるのって恥ずかしいっすね,という内容だ。
で,このエントリを読んで思ったのだが,前の騒動と違って,「私は中立ですが……」とか「私は○○の味方ではないのですが,少し折り合えないものでしょうか」みたいな人が目立つのだ。
なぜ「中立」なのだろう。中立とは,どちらの味方でもなく敵でもないということだ。この論争に限らず,何か論争があると「Aはここが問題があるし,B はここが問題。だからどっちもどっちだよね」と中立を気取る人が必ず現れる。もしかすると,「中立=頭いいオレ」ってことなのか。確かに論争をしていると,どちらにも何かしら問題点はある。「オレはその問題点に気が付いたぜ。そんな問題があるから両方に味方しないオレってカッコイイ!」ってことなのか。
この推測はあまり合っていて欲しくないのだが,一応言っとく。A説に賛成である,あるいはB説に賛成であるからといって,自分の論に欠点があることに気が付いていないわけではない。科学的論争においては,必ずA説とB説の相対化が求められる。A説もB説も説明出来ること,A説が説明出来てB説が説明出来ないこと,逆にB説が説明出来てA説が説明出来ないこと,A説もA説も今のところ説明出来ないことというのを把握する必要がある。その上で,「今までA説で説明出来なかったことが説明出来るように,A説を改良する(A'説)」といった作業をする。まあ,確かにネットでは自説の欠点に目を向けない人もいなくはないんだけど,知的誠実さには欠けるだろう。
で,もしA説でもB説でも問題があってどちらも自分は取れない場合は,どうするか。AとBを止揚させたC説を作るとか,全く新しいD説を作るなどする。そこまで出来なくとも,対立する説を止揚するための方向性を示すなどする。中立なんて絶対に言わない。C説
もD説も,A説やB説に対して,もはや中立ではないだろう。本当はそこまでしないと頭が良いとは言わない。
あと,やたらと「折り合え」とかいう人がいる。折り合えと言ってる割には,片方だけに「お前が頭下げれば解決するんだ」と言っている風に見えるんだが,そんなことはどうでもいい。でも,例えば「天動説」と「地動説」のようなものに対しては,何を折り合えばいいのだろう? あと「折り合え」と言っているのであれば,何をどのように折り合うのか提案すればいいと思うが,それはしない。
「折り合い好き」というのは,「いい人だと思われたい病」としか思えない。「ほら,これはあんたが全面的に悪いんやから頭下げるんやで! でも,あんたもなあ,ちょっと言い方っちゅうものがあるやろ,気いつけや」みたいな世話焼きオバサンになりたいのだろうか。それなら最後まで世話焼けばいいのに。両方に「うっせ,クソババア!」と言われるの覚悟で。でも,それはしない。
私は「中立」だの「折り合いましょうよ」とか綺麗事を言う人が嫌いだ。自分の頭の悪さをごまかし,いい人だと思われたくって,でも自分では何もしたくはない狡さを感じるからだ。何も意見がないなら,何も言わなきゃいいのに。あと,「共感文化=体験主義,議論文化=経験主義」という仮説も思いついたが,書くかどうかは分からない。「宗家もいいけど,議論もね!」とかコメントやはてブに書いて下さったら書くかもしれないけど,時間かかりそうなんで。
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